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もしかしたら君は天使かもしれない。 (61)
スーパー怖がりの亮にしたら、どれも果てしなく怖いのだが、やっぱり日本の幽霊が登場するヤツが一番怖いんじゃないかと思う。ジャパニーズホラーて、海外でも有名だしね。
その中でも、血まみれっぽいのが、特に苦手!
時代物にしろ、現代設定にしろ、血みどろの幽霊やら人間が出てくるのも怖いし、その室内、壁や床が血まみれなのも、とにかく嫌で嫌でしょうがないのだ。
なのに!
「ヒッ…」
お化け屋敷のアトラクションの前まで来て、亮はか細い悲鳴を上げて固まった。
睦月に連れられてやって来たそこは、まさに亮が苦手とするお化け屋敷そのものだったのである。
「ちょっ…むっちゃん…」
「あそこ入口! 何分待ちかな?」
古民家風の建物の入り口には、『怨霊屋敷』とおどろおどろしい書体で書かれた看板が設置されていて、ズタズタになった障子に血飛沫が飛んでいるのも見える。
うわっこれ一番ダメなヤツ! と亮は瞬時に悟ったが、目も心もお化け屋敷に奪われてしまった睦月は、亮が顔面蒼白で固まっていることになど気付かず、早く早く、と亮の浴衣の袖を引っ張る。
「むっちゃん、待っ…」
「あんま並んでないから、すぐ入れそう……て、亮?」
先に進もうとしてもなかなか進まないのは、隣の亮がまったく動かないからだと、ようやく気付いた睦月が、不思議そうに亮を見た。
この期に及んで、亮がお化け屋敷嫌いなことを忘れたというのか。
「………………。亮、怖いの?」
お化け屋敷と亮の顔を交互に見た後、睦月が分かり切ったことを聞いてくるので、亮は無言でコクコクと頷いた。
もちろん、怖いからこそのお化け屋敷なのだが、もうちょっとライトな感じだったらまだしも、これは相当なレベルでヤバい。入るまでもなく、亮にはそれが分かる。
こんなことなら、今朝、睦月がネットでこのお化け屋敷のページを見せてくれたとき、もうちょっとよく見ておけばよかった。
あのときは、一時の恐怖から逃れたいばかりに、睦月にすぐにページを閉じさせたけれど、どんなお化け屋敷なのかを知るために、我慢して見ておくべきだった。
そうすれば、何があっても絶対に来なかったのに…!!
「大丈夫だよ亮、あんなの作りモンだから」
睦月から、何の気休めにもならない言葉を貰うが、もちろんそれで亮が気を取り直すわけがない。
お化け屋敷が作りものだということも、登場するお化けは人形や人間が扮しているということも、あの血飛沫だって本当の血ではないことも、亮はちゃんと知っている。
それがどうしたというのだ。知っているからといって、怖さが半減するとでも言うのか。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (62)
入る前から亮はこんなに怖がっているというのに、相変わらず睦月はあっさりとそう言ってのける。
いや、だからそれが怖いんだってば! と亮は訴えたかったが、言ったところで、作り物は作り物、と思っている睦月にそんなことは通じないのだろう。
大体睦月は、どんなに怖いと評判のホラー映画も、『所詮作りモンだし』で一蹴してしまう性格なのだ。
怖がって何ぼのホラー映画やお化け屋敷に、ここまで冷めた視点を持っていて、一体何のためにこんなにもお化け屋敷に入りたがるのか、亮には理解しかねる。
「じゃあ……帰る?」
「えっ!?」
思い掛けない睦月のセリフに、亮は我が目を疑った。
自分がやりたいと決めたことなら、何があっても意見を曲げないであろうと思われた睦月が、亮のためにそれを翻してくれるなんて…………ホントに睦月?
失礼なことを言いたいわけではないが、だってそんなの、あり得ない。もしかして、もうすでに何か霊的なものに憑り付かれて、人格変わったとか?
…と、亮が疑心暗鬼になっていると、睦月は再び、亮をとんでもなく驚かせることを言い放ったのだ。
「じゃあね、亮、バイバイ」
「えぇっ!?」
どうやら先ほどの『帰る?』は、一緒に帰ろうということではなく、嫌なら1人で帰っていいよ、という意味だったのだ。
というか、一緒にお化け屋敷に入らない場合の選択肢が、お化け屋敷の外で待っている、ではなくて、1人で先に帰る、とか……極端すぎる!
「ちょっむっちゃん、待って! 帰んない、帰んないってば!」
「だって亮、入るの怖いんでしょ? 無理して入んなくても…」
睦月は困ったように眉を下げて、そう言った。別に、ごねる亮にいらついたとか、ふて腐れたとかでなく、睦月なりに考えた最善の策を言ってくれたらしい。
考え方は極端だけれど、睦月がこんなに亮のこと考えてくれているのに(元々は睦月がこんなところに亮を誘ったのが原因なのだが)、ここまで情けないことを言っていていいのかと思う。
怖がりでヘタレなのは性格だから仕方ないけれど、情けないにも程があるだろう…と、亮は自分を奮い立たせる。
「いや、大丈夫っ! だから入ろう、むっちゃんっ」
「どうした、急に」
突然こぶしを握り締め、中に入る気を見せた亮に、彼の決意を知らない睦月は訝しげに眉を寄せた。
一緒にお化け屋敷に入る気になってくれたのは有り難いが、今のこの数秒の間に、一体何の心境の変化があったというのだ……と、睦月はジロジロ亮の顔を見る。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (63)
「引き攣ってない!」
「蒼いし」
「蒼くない!」
絶叫マシンやお化け屋敷を怖がってばかりいたら、いつまで経っても睦月とテーマパークを楽しめない! と、無理やり奮起しているんだから、気持ちが冷めるようなことを言わないで!
「分かった。じゃあ行こ?」
睦月はかわいく笑うと、亮の手を引いて、お化け屋敷の入り口へと向かった。
「さぁ行っくぞぉ!」
無事に出られたら出口でアトラクションの割引券が貰えます、と説明を受け、2人は中へと入る。
というか、『無事に出られたら』とか、雰囲気を出すためのセリフだろうけど、余計な情報を付け加えなくてもいいのに。
しかし、浴衣で来園している人は決してゼロではなく、その格好でお化け屋敷に入れば割引券が貰えるというのに、他のアトラクションに比べて、お化け屋敷の混雑してなさ振り。
これは相当怖いということなのではないか。
亮は、勢いでお化け屋敷に入ると言ってしまったけれど、やっぱりやめておけばよかったかなぁ…。
天気が良くて明るい屋外に対して、足を踏み入れたお化け屋敷の中は、薄暗い。
まだ何も登場していないけれど、荒れ果てた室内の様子が、恐怖を倍増させる。
…なのに。
「割引券、3枚貰えるって」
「…………」
「その割引券で、もっかいこのお化け屋敷入るとか、ありなのかなぁ?」
「…………」
「そしたら、また割引券貰えると思う?」
「…………」
「ねぇ亮、聞いてんのっ?」
この雰囲気をまったく怖がる様子もなく、睦月はいつもの調子でベラベラ喋りまくっている。
怖じ恐れている亮がゆっくり歩いているから、歩く速度は一応それに合わせてくれているけれど、とても、お化け屋敷に入っているとは思えない態度だ。
大体、こういうところって、驚いて上げた悲鳴ならともかく、そうでなかったら、何となく声を潜めてしまうはずなのに、睦月は普段会話しているのと同じ大きさの声なのだ。
「亮?」
「でっ…でも、また貰えるんだとしても、お化け屋敷ばっかそんなに入ってたら、他のアトラクション乗れないよ?」
クイ、と睦月に浴衣の袖を引かれて、亮は何とか声を絞り出す。
別に睦月の話を聞いていなかったわけではなく、聞いていたけれど、お化け屋敷の雰囲気に飲まれて、声が出せなかっただけだ(だから、ちょっとくらい声が引っ繰り返っていても、大目に見てほしい)。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (64)
「えぇっ!? ダメダメ! 俺がジェットコースター苦手なの知ってんのに、何でそういうこと言うの!? 次は、俺の乗りたいヤツにして!」
「亮の乗りたいヤツ? いいけど……その代わり、その後はジェットコースターだからね? ビューンッ! て行くから!」
「え、どこに? ジェットコースターがビューンて行くてこと? 飛ばされちゃうの?」
安全設計のジェットコースターが、レールをはみ出してビューンと飛んでいくことはあり得ないが、ただでさえ怖くて仕方ない亮にしたら、冗談でもそんなこと言われたくない。
それなのに睦月は、『ビューンッ!』という言葉が気に入ったのか、腕を振り回しながら、何度も繰り返している。
無自覚だろうが、タチが悪い。本当にどこかに飛んで行っちゃいそうだから、やめて…!! と、かわいそうな亮は、乾いた笑みを貼り付け、心の中で泣く。
「ビューンッ! うわっ」
『ギアアァァッッ――――イタッ』
「あ、ヤベ」
しかし、不運だったのは、亮だけではなかった。
睦月の振り回していた腕が、事もあろうに、睦月たちを驚かすために飛び出してきた、ざんばら髪の幽霊に思い切りぶつかったのである。
お化け屋敷怖がるどころか、ジェットコースターの話などしながらやって来た睦月たちを、他のお客よりもさらに驚かせたいという気持ちは、彼の中に少なからずあった。
それなのに、『ビューンッ』と間抜けな擬音を発しながら振り回した睦月の腕が、選りに選ってお腹直撃…。
あまりのことに、2人を驚かすどころか、何も出来ずに立ち竦んでしまった。
「ビックリしたー」
凍り付いた……というほど寒々しい空気ではないが、しっかりと固まってしまった空気を打ち破ったのは、ポカンとしながら漏らした、睦月の一言だった。
もちろん、ビックリしたのは幽霊の登場ではなく、自分の腕がそれにぶつかったことだ。しかも、言葉ほど絶対に驚いてはいない。
「ビックリしたー、じゃないでしょ! 『ゴメンなさい』は!?」
「ゴメンなさい」
お母さんのように亮から言われて、睦月は幽霊に向かってペコリと頭を下げた。
どう考えても、おかしな状況だ。
壁や襖を始め、行燈などの小道具までも血にまみれの中、格子衝立の裏から現れたざんばら髪で恐ろしい表情を浮かべている幽霊に、怖がるのではなく、頭を下げるとか。
「もーむっちゃん、暴れちゃダメだからね?」
「暴れてないよっ!」
「暴れたじゃん」
「暴れてないー!」
役柄のためか、それとも本気で言葉が出なかったのか、幽霊は睦月に腕をぶつけられても何も言わなかったし、とりあえず謝ることは謝ったから…と、2人は先へ進んでいった。
だから、お前らは一体どこのバカップルだ! と幽霊が心の中で突っ込んでいたことは知る由もないのだが、実際に2人が正真正銘のカップルであり、バカであることは、その幽霊も知らないことだ。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (65)
「ん? 何、亮」
「何が?」
『うぅ…』
「お腹痛いの?」
「何急に。別に痛くないけど」
少し歩いたところで、なぜか突然睦月にお腹の心配をされ、亮は首を傾げる。
学校に行きたくなくてお腹が痛くなる子どものように、お化け屋敷が嫌すぎて、亮もお腹が痛くなったとか思っているんだろうか。でもそういう心配なら、入る前にしてほしかった。
『う…ぅ…』
「お腹痛いんじゃないの?」
「だから何でだって。痛くないよ。どしたの、むっちゃん」
「だってさっきから何か唸ってるから。お腹でも痛いのかと思って」
「?? 唸ってないよ」
睦月が言うような腹痛を起こしているわけではないんだから、唸る必要もない。
では、一体何を聞いて、睦月は亮が唸っていると思ったのか――――亮と睦月は、キョロキョロと辺りを見回す。
『ううぅ…』
その正体は、すぐに分かった。
亮たちが通り掛かった囲炉裏の部屋には、数体の血にまみれた死体……を模した人形が転がっていたのだが、そのうちの1つが、人形ではなく、本当の人間だったのだ。
そしてそれが、苦しそうに呻き声を上げながら、こちらに向かって這いずって来ている。
「反復横跳び!」
「えっ!?」
『ッ!?』
血まみれの死体人形が転がっている時点で怖いし、たとえそれが平気でも、人形だと思っていたのが、いきなり動き出せば怖いに決まっている。少なくとも、一瞬はビクッとなる。
それなのに睦月は、その死体を指差し、『反復横跳び!』と叫んだのである。亮はそっちに先に驚いてしまって、死体に驚くのを忘れた。
「え…………何、反復横跳び、て…」
いや、亮だって、反復横跳びが何たるかは知っている。高校のころの体力測定で、実際にやったこともある。
そうでなくて、一体どうして睦月は、こんなタイミングで『反復横跳び』などと口走ったのか。
亮も驚いて口をポカンと開けているが、2人を驚かすはずだった死体役の俳優も、片腕を伸ばしたまま(もしかしたら睦月か亮の足を掴むつもりだったのかもしれない)、固まっている。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (66)
亮に聞き返されて、しばし考え込んでいた睦月は、自分の言い間違いに気が付いたのか、死体を指差したまま言い直した。
どうやら、死体が這いずってくるその姿が、ほふく前進をしているように思えたらしい。まぁ…、確かにそう見えなくもない。だが、問題はそこではない。
最初から言い間違いをせず、『ほふく前進』と言っていたとして、だからどうして、そんなことをわざわざ言わなければならないのだ。
「自衛隊!」
しかし、睦月はそんな疑問に答える気などない……というか、疑問に思われているとも思っていないので、さっさと次の話題に移っている(それもまた、不可解なわけだが)。
「自衛隊…て、それ、ほふく前進から思い付いただけでしょ?」
それでも亮は、何とか睦月の気持ちを汲みとって、突っ込んでやる。
死体の彼など、這いつくばって片腕を上げた状態のまま、まったく動けずにいるのに(だって、反復横跳びにしろ、ほふく前進にしろ、それを口にした意味は!?)。
「この人、自衛隊の人」
「絶対違うから」
自衛官がお化け屋敷で死体役に扮しているはずもないし、戦国時代なのか江戸時代なのかは知らないが、この時代設定に自衛隊など存在しないのだから、睦月がどちらの意味で言ったにしても、あり得ない。
「救助しまーすっ!」
「何を」
ただ思い付きで喋っているだけだろうが、睦月は楽しそうに、ビシッと敬礼までしてみせてくれる。それがあまりにもかわいくて、亮はつい顔を綻ばせた。
「お願いしまーすっ! イエッサー!」
「何をお願いしたの? で、何で自分で返事した?」
「サーッ!」
「あぁ、それ言いたいだけね」
もう、驚いてくれ、なんて言わない。
そんな贅沢なことは言わないから、ここはお化け屋敷の中で、2人を驚かすべく這いずって来た血まみれの死体が足元にいるのだから、ほったらかしで、いちゃつくのはやめてくれ。
…という、死体のささやかな願いすら聞き入れられることなく、亮と睦月はキャッキャと先へ進んで行った。
「サーッ!」
「むっちゃん、声おっきいってば」
お化け屋敷の中、仕掛けなどに驚いて悲鳴を上げる人は大勢いるだろうから、大きな声を出すのが悪いわけではない。しかし、睦月の上げている声といったら…。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (67)
「何でそのセリフ、気に入っちゃったの?」
もともとは『イエッサー』だったはずだ。それなのに、最後の部分だけ気に入ったらしく、睦月はそこばかりを繰り返している。
亮は、嫌な予感がし始めていた。これは、睦月のテンションが上がって来た予兆ではないか。睦月はテンションが上がり過ぎると、奇声のようなものを発し出すから…。
「ひーっ!」
やっぱり…。
亮の予想どおり、睦月は妙な声を上げて、ピョーンと飛び跳ねた。
「むっちゃん、暴れないでって、さっき言ったでしょ!」
「はあっ!」
両手を万歳のように挙げて、ピョンピョン飛び跳ねている睦月に言って聞かせれば、睦月は返事ともつかないような返事を返す。
ここに入る前、走っていてこけそうになったくせに、もうそれを忘れたというのか。
「はっ! シュッシュッ」
「ちょっ…むっちゃん! 何でシャドウボクシングしてんの! お化け倒す気!?」
テンションが上がり過ぎて、奇声だけでなく、なぜかシャドウボクシングを始めた睦月に、今度こそ亮は慌てる。
最初の幽霊のときは、わざとではなかったからいいようなものの、これはまずい。そのこぶしが当たれば、傷害致死的なことになってしまう。
「にゃあ!」
亮はとりあえず、睦月と手を繋ぐことで、そのこぶしを引っ込めさせた。
でも、楽しくなり過ぎている睦月は、繋いだその手をブンブンと振り回していて…………睦月を大人しくさせるための作戦として、果たして成功しているのか分からなくなる。
「にゃっにゃっにゃあ~!」
「やめて、むっちゃん。めっちゃかわいい…」
『かわいい』は、睦月にとって禁句なのだけど、あまりのかわいさに、思わず亮の口を突いて出てしまう。
だって、さっきまでのシャドウボクシングが、いつの間にか、猫パンチみたいになっているのだ。これを『かわいい』と言わずして、何と言おうか。
――――と。
『うわあああああぁぁぁっっっ!!!』
道なりに進んだ先、障子戸がある、と思った次の瞬間だった。
ボロボロの障子紙を突き破って、組子の間から無数の手が飛び出して来た。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (68)
驚いて当然である。
ビクッとなるのは、亮だけではないはずだ。
しかし、睦月は無敵だった。
「ジャーンケーンポーンッ!」
「ちょっ!」
飛び出してきた何本もの手に向かって、睦月はいきなりジャンケンの勝負を持ち掛けたのである。
あまりに突然のこと過ぎて、こちらに向かって伸びていた手は、そのままの状態で固まった――――睦月たちに襲い掛かろうする格好、つまりは『パー』の状態で。
睦月が出したのは、チョキ。
「勝ったぁ!」
睦月は、まるでブイサインのように、そのチョキにした手を上に翳した。
勝利のピースである。
『う…ぁ…??』
『????』
『ジャン…ケン…?』
障子越しに、困惑の声が聞こえてくる。
連日ここで組子の間から手を出してはお客を驚かせてきた彼らにとっても、ジャンケンを仕掛けられるなど、まったく初めての出来事なのだから、役を忘れてしまっても仕方がない。
もう1度ジャンケンをされたときは、果たしてそれに乗ってあげたほうがいいのだろうか。
「亮ー、勝ったよ~!」
「う…うん、よかったね」
「きゃはっ」
手の数で言ったら、相当数の人数とジャンケンをしたわけで、そこで1人勝ちしたとなれば、嬉しくて堪らないだろう。
睦月はムギュムギュと亮に抱き付いた。
障子越しとはいえ、やって来たお客を驚かすタイミングを計るため、モニターでそちらの様子は見えている。
驚かしそびれたうえに、なぜか仕掛けられたジャンケンでも負け、腹立つくらいにいちゃついているカップルを目の当たりにしていると、本当の幽霊や怨霊のように、恨みを込めて襲い掛かりたくなってくる。
「チョキっ!」
「まぁ…………うん」
ピースとかブイではなく、飽くまでそれはチョキなんだね。
まぁ、はっきり言って、どっちでもいいけれどね。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (69)
「ひゃあっ! ひゃあっ!」
「声上げるか、飛び跳ねるか、どっちかにしてくださーい」
本当はどっちもやめてもらいたいんだけれど、今のテンションの睦月にそれは無理だろうから、せめてどちらかだけでも。
「…! …!」
すると睦月は、どうやら亮の提示した二者択一で、飛び跳ねるほうを選んだらしい。
口をキュッと結んで、亮と手を繋いだまま、ピョンピョンしている。
亮は、どうか転ばないでくれ、と願うしかない。
「ぅん! んんっ!」
あぁ…、我慢し切れずに、声が出始めている…。
「んー! んんー!」
「むっちゃんっ!」
「ひゃはー!」
結局、睦月が黙っているのなんて、ものの1分も持つことはなかった。
ブンッと亮の手を振り解いて、大きくジャンプした。…テンションの上がり切った睦月を、一瞬でも我慢させたのが、まずかったらしい。
「きゃあ~~!! きゃあっ! きゃあっ! きゃっ!」
決して、恐怖ゆえの悲鳴ではない。歓喜の雄叫びである。
怖がってこそのお化け屋敷で、入ったときから一瞬でも怖がっていないくせに、一体何がおもしろいのか、睦月はテンションを上げまくって、楽しみまくっている。
まったく、人迷惑……怨霊迷惑? 極まりないんだけど、何だかかわいいから、もうどうでもいいか。
進む先に外の明かりが見えるから、もう少しで出口なのだろう。
お化け屋敷の人たちにはゴメンなさいだけれど、もうすぐ出ますんで、許してください。
…と、亮が心の中で許しを願った瞬間だった。
『うおぉぉ~~~~~!!!!』
何もないと思っていた暗がりから、突如、ズタボロの着物を着た女の幽霊が、髪を振り乱し、両手を上げて飛び出してきた。
もうすぐ出口だ…と安心させたところに登場することで、より恐怖を味わわせる目的なのだろう。確かにこのタイミングは、最高に怖い――――普通ならば。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (70)
『ッ!?』
しかし、相手はテンションの上がった睦月なのだ。
ピョーンと飛び跳ねた睦月は、そのままその女の幽霊にハイタッチをしたのである。
お化け屋敷で幽霊とハイタッチをかわした人間など、今までにいただろうか。
この幽霊の女も、これまでに何十人、何百人とお客を驚かせてきただろうけど、きっとこんなこと初めてに違いない。両手を振り上げた状態のまま、すっかり固まっている。
「へいっ!」
それをいいことに、睦月は再び幽霊の女にハイタッチをする。
彼女も別に、睦月とハイタッチをしたくて手を上げているわけではないだろうに。
「ハーイターッチ!」
「むっちゃん、ハイタッチはもうおしまい! 行くよ?」
「はぁーい!」
…恐らく、この元気のいい『はぁーい』は、『ハイタッチ』の『ハイ』の部分を言っただけであり、亮の言葉に素直に返事をしたわけではないだろう。
でももうそこはあえて突っ込まずに、亮は睦月の手を引いて、出口へと向かった。
ゆっくりと振り返った幽霊の女は、2人が仲良くお化け屋敷の外に出ていくのを見守るしか出来なかった。
「ピョーンッ!」
お化け屋敷から出る最後の一歩を、まるで立ち幅跳びをするかのように踏み込んで、睦月は外の世界へと飛び出した。睦月と手を繋いでいた亮も、つられて勢いよく外に出る。
「ピョンピョンピョ~ンッ!」
「むっちゃん、割引券、貰うんじゃないの?」
「あはははは」
アトラクションの割引券を貰うために、浴衣でこのお化け屋敷に入ったというのに、睦月は、出口のところにいる係員を通り越していきそうになっている。
亮に言われて、睦月はようやくピョンピョン跳ねるのをやめた。
出口の係員はといえば、睦月のテンションにまったく付いて行くことが出来ず、ただただ唖然となっていた。
それはそうだろう。未だかつて、お化け屋敷から『ピョーン!』と言って出て来た人など、見たことがない。というか、こんなに笑顔で出て来れるとも、想像だにしていなかった。
それくらい、このお化け屋敷の怖さには、定評があるのだ。
それなのに…。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (71)
「だから、何なのそれ。あ、ありがとうございます」
飛び跳ねこそはしないものの、そのフレーズは気に入ったらしく、睦月はそれを繰り返しながら、呆然としている係員から割引券を受け取った。
「あー…………え、と…、こちらの割引券は、本日限りの有効となっておりますので……」
「あっはぁ~」
「ちょっ、むっちゃん、何でそんな色っぽい声出すのっ!?」
係員が、プロ根性で、何とか割引券の説明をし始めたのに、睦月がまたわけの分からない声を上げるから、頭の中が真っ白になって、言葉が出て来なくなった。
というか、ちょっと妙なのは睦月のほうで(『ちょっと』と付けたのは、大人としての気遣いだ)、それを制しようとしていた亮はまだまともだと思っていたのに、どうやらそうでもないようだと、係員は思い始めた。
だって、今の睦月の『あっはぁ~』の突っ込むべきところは、色っぽい声を出したかどうか、ではないはずだ。
「もぉ! むっちゃん、俺以外の前で、あんな声出しちゃダメ」
「ダメですっ」
亮の言っている意味が分かっているのか、そもそも睦月は色っぽい声を出したのか、その点は不明だが、すっかりテンションが壊れている睦月は、口の前で人差し指でバッテンを作っている。
声を出さない、という意思表示のつもりなのだろう。
「………………」
何だ。
何なんだ。
とりあえずここは突っ込んでいいのか? それともそっと見守っておくべきなのか? つか、赤の他人が目の前にいるってのに、いちゃついてんじゃねぇぞ。
…係員は、思わず殺意が湧いてしまうほどの苛立ちを覚えたものの、何とかそれを心の中に留め、必死に笑みを顔に貼り付けた。
というか、ここまで来るともう、こんな小さなことを気にしている自分のほうが、むしろおかしいのではないかとさえ思えてくるのだ。
いいじゃないか、お化け屋敷から、笑顔で『ピョーンッ!』と言いながら出て来たって。テンション崩壊で、人前でいちゃついたって、いいじゃない、人間だもの。
「つっぎ、なっに乗っるのぉ~?」
睦月は歌うように亮にじゃれ付き、亮はそんな睦月をあやしながら、2人はお化け屋敷から去って行った。
その後、ただでさえ怖いと評判だったこのお化け屋敷が、より怖くなった事実は、亮と睦月の知らないところである。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (72)
「え、俺?」
「だって次、亮の乗りたいのに乗るんでしょっ」
「え? え? あ、」
そういえばさっき、お化け屋敷を出たらジェットコースターに乗ろう! と言った睦月に対して、次は亮の乗りたいものにしてくれ、と言ったんだっけ。
あれは、苦手なお化け屋敷を出てすぐに、これまた苦手なジェットコースターに乗るなんて地獄すぎる…! と思って、ついそう言っただけなのだが。
でもそういえば、お化け屋敷、はしゃぎまくる睦月に気を取られて、怖がってる暇もなかった…。
「ね、むっちゃん、とりあえずちょっとあそこ座らない? 今、めっちゃはしゃいで、声出して……喉渇かない?」
早く早く! と急かす睦月に、亮は声を掛ける。
「ぅ?」
「で、何乗るか決めようよ。この3枚で」
割引券を3枚しか貰わなかったからと言って、3つ以上の乗り物に乗ったらいけないわけではないけれど、これを有効に使うためには、もうちょっと考えないといけないと思う。
…というのはまぁ建前で、まだテンションが振り切れたままの睦月を、ちょっと落ち着かせなければ…という気持ちのほうが強いのだが。
「コーラ!」
「うん、コーラ飲もう」
まだ飲み物を売っている店の前でもないのに、さっさと飲みたいものを宣言する睦月に、亮は笑うしかない。
「コーラ飲もう! 飲もうっ!」
「分かった分かった」
…マズいな、睦月のテンションが下がる気配がない。
とりあえず場所取りの意味も兼ねて、睦月をベンチに座らせ、亮が売店の列に並ぶ。亮の前には2人しかおらず、すぐに順番が回ってくるだろうから、その間くらい1人にしても大丈夫…………と思ったのに。
「コーラ!」
「ちょっむっちゃん!?」
ここで待っててね、とちゃんと言い聞かせて、睦月を残して来たのに、その睦月がいつの間にか亮の横に来て、ちょこんとしている。
そんなにコーラが待ち切れなかったの?
「次だから、順番。買ったらすぐ行くから、座ってて?」
「やぁだー」
「何で。コーラでしょ? ちゃんと買うから? おっきいサイズのでしょ?」
「おっきいコーラ!」
睦月は、自分たちの後ろに並んでいる親子連れの小学生よりも、よっぽど子どもらしく遊園地を楽しみ、コーラを楽しみに待っている気がする…。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (73)
「Lで!」
「ちょっと睦月さん。勝手に人の注文に口を出さないでください」
自分たちの番が回って来て、亮が係のお姉さんに注文すれば、睦月が口を挟んでくる。
係のお姉さんが、どうしますか? という顔で伺ってくるので、亮は、ニヤニヤしている睦月を睨んでから、「ウーロン茶はMで」と繰り返した。
「お待たせしましたー」
手際よくドリンクを準備した係のお姉さんがカップを2つ差し出して来たので、亮が代金を払おうとしたら、隣からスッと手が伸びてくる。睦月の手だ。
ドリンクを受け取ってくれるつもりなのだと、亮は勝手に解釈していたのだが、そうではなく、睦月は持っていた1,000円札を係のお姉さんにサッと渡した。
「え…、むっちゃん?」
「んだよ」
ポカンとして亮が睦月を見れば、睦月はいつもどおりの表情で、自分のコーラとおつりを受け取り、側にあった施設のパンフレットを持って、さっさとベンチに戻っていく。
突然のことに、亮は慌ててその後を追い掛けようとして、「お客様っ」と係のお姉さんに呼び止められ、振り返れば自分の分のウーロン茶を置き去りにしていた。
「あ、すいません」
ウーロン茶のカップを受け取って、急いで睦月に追い付く。
先ほど亮が見つけたベンチは、すでに他のお客で埋まっていたが、別の場所が空いていて、睦月がそこに座ったので、亮はその隣に腰を下ろした。
「むっちゃん、ウーロン茶のお金…」
「え、払っただろ?」
「うん、だから…。いや、ありがと」
亮としては、自分の分も睦月の分も出すつもりでいたのに、結局全部睦月に出してもらってしまった。
今からでもお金を出そうかと思ったけれど、それも何だか野暮なので、お礼を言うだけに留めておいた。
「で、次何乗るの?」
ずずずずず~~~っと、結構な勢いでコーラを飲んでから、睦月が小首を傾げてパンフレットを広げた。
あぁそうだ、それを話すために、ちょっと休憩することを選んだのだ。
「むっちゃんがジェットコースター乗りたい、て言うなら、それでもいいよ? あ、いや…」
どうせ、最終的には乗らなければならないのだ。だったら、嫌なものはさっさと終わらせて、残りの時間は悠々と過ごしたい――――亮はそう思ったのだ。
しかし言ってから気付いたが、睦月は別に、ジェットコースターに1回しか乗らないとは言っていなかった。
3枚しかない割引券を、すべてジェットコースターに費やしはしないだろうけど、割引券なしで乗ることは出来る。割引券を使い切ってから、残りの時間でまたジェットコースターに乗るとかなったら…。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (74)
だいぶテンションの落ち着いた睦月が、とっても冷静にそう言った。
さっきまで、子どもよりも子どもらしく、無邪気にはしゃいでいたくせに、急にそんな冷やかに言わないで…!
「だってむっちゃん、ジェットコースター、乗りたいんでしょ?」
「乗りたい」
やっぱりそこは譲れない部分らしく、睦月はキッパリと断言した。
で、亮が、イヤだ~、乗りたくない~、とごねれば、お化け屋敷に入ろうとしたときのように、『じゃあね、亮、バイバイ』と言って、亮だけ帰るように言ってくるに違いない。
それは嫌だ。
「むっちゃんが乗りたいなら、俺も乗るっ」
「…俺、何回も乗るよ?」
やっぱり…!
亮の予想をまったく何も裏切らずに、睦月はあっさりと言ってのけた。
「なっ…何回でも乗るしっ…!」
「声、引っ繰り返ってるし」
「平気だしっ」
「…………。…亮がそうやって強がるなら、俺、亮の言葉をそっくりそのまま信じて、ホントに何回でもジェットコースターに乗せるからね?」
「グッ…」
睦月は、テンションが上がろうが上がるまいが、誰よりも子どもの心を持った21歳だけれど、別に鬼ではないから、亮に多少の猶予を与えてくれていたのだが。
亮がなけなしのプライドで、睦月の優しさを無下にするなら、和衣のように空気の読めない人間になって、自分の欲望の赴くまま、亮と一緒にジェットコースターに乗りまくってやる!
「じゃ、行こっ?」
「う、ぐ…。や…、まだこれ飲んでないしっ…」
「歩きながら飲めばいい」
亮が、悪あがきとばかりに言い訳してみたが、それは案の定、あっさりと一蹴される。
Lサイズのコーラなのに、あっという間に飲み干して、もう中身は空になったのか、睦月はグシャリとカップを潰して立ち上がった。
「………………。…亮」
近くのダストボックスに潰したカップを入れて、睦月は亮を振り返った。亮はまだベンチに座っている。
その目は、『早くしろ』と言っているようにも見えた。
「むっちゃ…」
「――――亮、」
睦月はズカズカと、再び亮の元に戻って来る。痺れを切らして、無理やり亮を引っ張って行こうというのか。あぁ…こんなことなら、つまらない意地など張るんじゃなかった。
大体からして、睦月は亮がジェットコースター類が苦手なことを知っているんだから、別に格好つける必要なんかなかったのに(でも、そこはそれ、男の子だし!)。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (75)
「…………。は…? え?」
「早くしないと、この3枚も使い切れない」
睦月は笑っているでもなく、かといって怒っているでもなく、どちらかというと無表情で淡々とそう言って、亮のほうに手を差し伸べた。
雰囲気からして、機嫌がいいということはなさそうだが、無理やりジェットコースターのほうに引っ張って行かないうえに、別のアトラクションを提示するのは、亮を気遣っているのだろうか。
「カップのもヤなの? でも、さすがに俺も、メリーゴーランドとか恥ずかしいんだけど」
差し出した手を取らない亮に、睦月はチラリと後方のアトラクションのほうを見た。
メリーゴーランドが子どものみを対象にした乗り物とは思っていないが、この遊園地のものは、あからさまに子ども向けの仕様で、列に並んでいるのも子どもとその保護者ばかりだ。
それにしても、誰よりも子どもらしい睦月が、子どもっぽくて恥ずかしいから、という理由を持ち出すなんて。
「ミラーハウスは? それとも、もう観覧車乗る?」
亮が何も答えられずにいると、睦月は次の提案をする。
さっきは、何回もジェットコースターに乗る、と言って、亮を無理にでも連れて行く気満々だったのに…と亮が不思議に思っていれば、そんな亮に、睦月は溜め息を零した。
「後はもう、絶叫系と、超子ども向けのしかないけど…」
言って睦月は手を下ろすと、肩を竦めた。
絶叫マシン大好きな睦月は、もちろんジェットコースターには乗りたいけれど、亮が嫌がるなら、それを無視して、無理にでも自分の意見を通す気などない。
さっきは、亮が、本当は嫌だと思っているのに、意地になってジェットコースターに乗ると言うから、そっちがその気ならと思って、ちょっと意地悪言っただけなのに。
何となく、愛菜たちの『浴衣でお出掛けイベント』に触発されて、亮と一緒に浴衣で出掛けられる場所を調べて、来てはみたものの…………来る場所、間違えてたかなぁ…。
遊園地の基本は、絶叫系と完全なる子ども向けの他は、定番の観覧車とお化け屋敷くらいで、よほど規模が大きい遊園地でない限り、それ以外のアトラクションはそれほど充実していない。
睦月はもともと絶叫マシンもお化け屋敷も大好きだから、遊園地は最高に楽しい場所だけれど、亮にとっては、どこまでも果てしなく苦手な場所でしかなく。
それを考えれば、亮も乗れそうなものを探すのが大変だということくらい、容易に想像が出来たはずなんだけれど。
「…亮、帰る?」
「帰んないっ!」
「いや、一緒に」
お化け屋敷に入る前、いつまでもウダウダ言っている亮に、1人で先に帰るよう言ってしまったことを気にしているのかと思って、睦月はそう付け加える。
とりあえず、当初の目的であるお化け屋敷には入ったし(しかも、めっちゃ楽しかった!)、割引券を使わないのはもったいないけれど、これは亮を連れ出すための口実でもあったから、まぁいっか、とも思う。
亮に嫌な思いをさせてまで、これ以上ここにいる必要もない。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (76)
亮がまたちょっと意固地になっているふうだったから、睦月はわざと気軽な言い方で提案してみた。
睦月は、和衣ほどロマンチストではないから、恋人同士で遊園地に来たからには絶対観覧車! とかはないけれど、こんな微妙の空気のまま帰るのは。
亮が、もうすっかり疲れ果ててしまったから帰ると言うなら、それでもいいけど。
「…むっちゃん」
「何」
ベンチに座ったままの亮が睦月を見れば、睦月も亮を見つめ返す。
年齢よりは幼い顔立ちではあるものの、確かに21歳の男子。さっきまで『にゃあ』だの『ぴょ~ん』だの言って飛び跳ねていたのと同じ人間とは、俄かに思えない。
「むっちゃん、ジェットコースター、乗ろう」
「…それ言い出すと、また話が元に戻るんだけど」
睦月はもう、絶対にジェットコースターに乗ってやる! という気持ちではなくなっているから、今日どうしても乗れなくたっていいのに。
でも亮がまたそういうことを言うから、話は戻ってしまうし、その口調からして、睦月がジェットコースターはいいと言っても、それこそ亮は意地になって、乗ると言い続けるに違いない。
「ジェットコースター乗って、カップのに乗って、最後に観覧車にしよ?」
「亮、ホントに言ってんの?」
「うん」
割引券は3枚あるし、まだ時間はあるし、観覧車だけ乗って帰らなくたって、もっと楽しめる。ジェットコースターは苦手だけれど、初めて乗るわけではないし、1回くらいなら。
そう思って、亮はベンチから立ち上がった。
「…ジェットコースターじゃなくて、ミラーハウスでもいいよ?」
「ダメ。ミラーハウスなんか入ったら、むっちゃん嬉しくなっちゃって、危ないもん」
「何だよそれっ! 嬉しくなんかなんねぇよ、鏡ぐれーで!」
亮に気を遣って、最後の譲歩をしてやったというのに、何なんだ、その言い種はっ!
睦月はプクッと頬を膨らませるが、先ほどのお化け屋敷で、楽しすぎてテンションを崩壊させたのは事実であり、亮の言い分があながち間違っていないことは睦月にも分かるから、強くは言い返せない。
だってミラーハウスて、壁がみんな鏡張りになっていて、自分が何人にもなって映るアレでしょ? そんなの楽しいに決まってる!
「ジェットコースターにしよ?」
「えぇ~? まぁ、亮がそこまで言うなら、ジェットコースターに乗ってやってもいいけど?」
隣に並んだ亮を挑発的に見やって、睦月はフフンと鼻を鳴らす。
そんな睦月に、亮は何も言い返さず優しく微笑むから、睦月は亮の手を握って元気よく歩き出した。
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カテゴリー:Baby Baby Baby Love
もしかしたら君は天使かもしれない。 (77)
ジェットコースターへの乗車は、案の定、亮を恐怖と絶望のどん底に落としたけれど、これも1度きりのこと、後はティーカップと観覧車だけだと思って、乗り越えた。
しかし、それは甘かった。
いや、約束どおり、ジェットコースターは1度しか乗らなかったけれど、問題はティーカップにあった。
あんなかわいらしい成りをしていながら、ティーカップがあんなに恐ろしいものだったなんて…!
「亮、大丈夫?」
「…………大丈夫そうに見えますか…?」
ティーカップから降り、ヨロヨロと出口から出た亮に、睦月から能天気な声が掛かる(心配してもらえただけ、マシなのだろうか…)。
アトラクションの周りをグルリと囲んでいる柵に手を突いて、亮はその場にしゃがみ込んだ。
「ティーカップ、楽しくなかった?」
睦月の問いに、亮は何も答えない。
どう答えればいいのか、答えがまったく見いだせないのだ。
亮は、ティーカップに乗るのは初めてではない。
亮の記憶の中のティーカップは、とても楽しい乗り物だった。ずっとそう信じていた。だからこそ、睦月がティーカップに乗ろうと言ったのにも、二つ返事で了承したのだ。
それなのに…!
「亮ー?」
亮の肩に手を置いて、コテンと首を傾げている睦月に、亮の気持ちなど一生分からないのだろう。
ティーカップはあんなに全力で回すもんじゃない…! という切なる願いなど。
そもそもティーカップは、床と個々のカップが回転するのだが、カップ内にあるハンドルを回すことで、そのカップの回転速度をいくらでも上げることが出来るのだが。
亮は、その仕組みを十分に理解していたし、高速で回転させる人がいることも、話だけでは知っていた。
しかし、睦月までもが、そういう類の人間だとは、まったく以って思っていなかったのだ。
(いや、そうじゃないな…)
亮は頭の中に浮かんだ考えを振り払う。
ジェットコースター大好きの睦月が、好き勝手にスピードを上げられる乗り物に乗ったら、好きなだけ高速回転させることなんて、分かり切ったことだ。
ただ、亮の記憶の中のティーカップは、『スピードが出て怖い乗り物』ではなかったから、こんなことになるなど、思ってもみなかったのである。
「亮、どうしたの? お腹痛いの?」
「いや…」
お腹が痛いんじゃなくて、気分が悪いんです…。
そう答えたところでどうにもならない気がして、亮はフラフラになりながら立ち上がった。睦月を見れば、思ったとおり、本気でキョトンとした顔をしている。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (78)
「休憩? また冷たいモン飲んだら、余計にお腹痛くなっちゃうよ?」
「いや…だからね…、お腹痛いわけじゃ…」
「違うの?」
睦月なりに亮のことを心配してくれるのだが、さっき冷たいウーロン茶を飲んだから、お腹を痛くしたと思っているのか、その心配の方向が見当違いで、それが余計に亮を疲れさせる。
「………………。亮、顔色悪いよ」
「まぁね…」
ジーッと亮の顔を見つめていた睦月が、訝しむように言う。
そもそも睦月は、亮がこんな調子であることの理由が、腹痛以外ないとでも思っていたのだろうか。
「もしかして亮、新たな苦手アトラクション、発掘? 発見? ふしぎ発見?」
「…大丈夫だから、ちょっと黙ってて」
今の亮に、睦月のボケに付き合っていられる余裕はないのだ。
いや、ボケたのか本気で言ったのかは分からないが、それを検証する元気もないのだ。
「………………亮、」
「え…?」
恐ろしいほど低い声で名前を呼ばれ、亮が視線を向けると、睦月は、その声から想像しうる以上に恐ろしい顔で亮のことを見ていた。
黙ってて、と言ったことに、気を悪くしたのだろうか。ゴメンなさい、つい本音が出ました。でも今は謝るほどの気力ないから、どうか見逃してください。
「立て」
「いや、立ってます…」
ものすごく男前な感じで睦月に命令され、別に反抗するつもりはなかったんだけれど、もうすでに立っていたから、一応そう答えておく。
亮がそんな態度を取ったせいからだろうか、睦月はクイと顎をしゃくって、亮に何やら指示を飛ばすが…………もう本当にゴメンなさい、それを読み解く力もないんです…。
「座れ」
「えっ…」
いや、今『立て』と仰ったじゃないですか。
そう反論するのも憚られる雰囲気を醸し出している睦月に、亮は素直に言うことを聞いて、その場にしゃがもうとした――――が。
「バカ、何してんだよ。あそこ座れよ、具合悪いんだろ?」
「はぇ?」
睦月はギョッとした顔で、その場にしゃがみ込もうとした亮の腕を掴むと、少し離れた場所にあったベンチを指差した。
あぁ、なるほど。あれに座れと言ったのか。もしかして、その前に顎で何かを差していたのも、あのベンチに座れということだったのかな。ゴメン、分かりづらかった…。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (79)
まさか1人で観覧車に乗るとは思えないから、亮がこうやって休んでいる間に、ジェットコースターでも乗ってくるんだろうか。
まぁ、亮にもう1度乗れと言われたって、絶対に乗りたくはないから、たくさん乗りたいなら今のうちに乗って来てくれていいんだけれど、ちょっと寂しい…。
「あー…情けない…」
亮はベンチにぐったりと寄り掛かって、目を閉じた。
睦月のおかげで……かどうかはともかく、お化け屋敷は何とかクリアしたものの、お約束どおりジェットコースターはメチャクチャだったし、ティーカップでも、まさかのこの状態。
睦月と一緒に遊園地に来て、いいところなんて1つも見せられなかったし…。
「ホラ」
「うわぁっ!!」
目を閉じていたとはいえ、人の近付いてくる気配をまったく感じていなかったので、突然頬に触れた冷たい感触に、亮は驚いて大きく体を跳ね上げた。
右足の草履が、すっぽ抜けて………………目の前の睦月にぶつかった。
「………………。亮、テメェ…………」
「うわあぁぁ~~~~、ゴメン、むっちゃん、ゴメンっ!!」
そもそもの原因は、睦月が、持っていたカップを亮の頬にくっ付けたことなのだが、具合の悪い亮のために飲み物を買って来て、それを頬に当てるという、些細ないたずらをしただけにしては、あまりにひどい仕打ちだ。
「ゴメン、ゴメンっ! むっちゃんゴメンッ!」
「………………。…もういいから飲めよ」
あまりにも亮がアタフタと謝って来るものだから、睦月も拍子抜けしたのか、呆れ返ってしまったのか、そう言って睦月は亮にカップを渡すと、落ちていた草履を拾った。
「履かせてやろっか?」
「…自分で履くから、そこに置いてください」
「ぐふ」
睦月に草履を履かせてもらうなんて、いろんな意味で恐れ多いので、そこは丁重にお断りしておく。
意外にも睦月は素直に言うことを聞いて、草履を置くと、亮の隣に座った。
受け取った飲み物に口を付けつつ、隣の様子を窺えば、睦月は前を見たまま、足をプラプラさせていた。
呆れているんだろうか。
それとも、ガッカリしてる?
「…むっちゃん、」
「ん? もう飲んだ? じゃあ観覧車行く?」
「えっ?」
「ん?」
亮の心配をよそに、睦月は特に何も気にしている様子がない。
…あんまりどうでもいいんだろうか。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (80)
「いや、乗るけど…。何かゴメンね、むっちゃん…」
「何が? 何で?」
足をブラブラ……というよりは、ブンブンと勢いよく振りながら、睦月は首を傾げる。
「何か…、いろいろダメダメで」
「別に、亮がダメなのなんて、最初から知ってっけど」
「…………」
今日のことで呆れられたとか、見損なわれたとか、そういうことがないのはよかったけれど、最初からそんなダメな感じで思われているのも、ちょっと切ないのですが…。
ただまぁ、遊園地おける亮のへたれっぷりに対して、睦月の評価が厳しいのは、今に始まったことではないのだが。
「亮、何落ち込んでんの? ティーカップもこの有り様だから?」
「まぁ…」
言ってから睦月は、今の言い方はちょっとなかったな、と思う(いや、その前の発言もだけど)。
睦月は、亮がジェットコースターに乗れなくても、お化け屋敷が苦手でも、一緒に楽しむことが出来ないな、と思うくらいで、別にそんなことで亮を軽蔑なんかしない。
でも、あんまりにも亮がヘタレだから、つい思ったことが口を突いて出てしまった。
…昔から睦月は、自分の気持ちにすごく素直なのだ。
「まだもうちょっとここいる?」
「いや、もう行くしっ!」
「…いちいちムキになんないでよ、亮」
睦月の発言がそうさせたのだろうけど、亮はいつも以上に頑なで、睦月は、どうすべきなのか分からなくなってしまう。
睦月は、口では、亮のことを物凄いヘタレのように言っていて、まぁそれは本心なんだけれど、でも別に、亮に無理をさせたいわけじゃないから、そんなに突っ掛って来ないでほしい。
でもそれはきっと、今日に至るまでの睦月の性格とか、亮に対しての態度とか、そういうものがそうさせているわけで。
(…何で亮、それでも俺に付き合ってくれてんだろ)
スクリと立ち上がった亮を見つめながら、睦月はふと思う。
いや、好きだから付き合ってくれているんだろうけど、よく愛想が尽きないなぁ…と。もし睦月が亮の立場だったら、もうずっと前にブチ切れて、別れを切り出している気がする。
睦月はこう見えて、自分の性格をよく理解しているから、それは分かる。
「むっちゃん、行こっ?」
「え? あ、うん」
気付けば睦月は、亮に腕を引かれて、観覧車のほうへ向かっていた。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (81)
亮は、繋いでいた睦月の手を離したくなかったけれど、2人の後ろに並んでいたカップルの女の子がジロジロと見てくるものだから、やむなく手を離してしまった。
そんな亮を、睦月は不思議そうに眺めてから、特に気にするふうもなく、亮の浴衣の袖を掴んだ。
そうだ。
どうせここで会ったカップルなんて赤の他人だし、多分もう2度と会うこともないだろうから、別に気にすることなどないのだ。睦月と付き合っていることは、何も恥ずかしいことじゃないんだし。
…でも、そう出来なかった自分。
(だから、ヘタレ…て思われんだよな…)
ゴンドラに乗り込みながら、亮はそう思って暗くなった。
「え?」
ふと隣に気配を感じてそちらを見れば、亮の隣に睦月がちょこんと座っていた。
観覧車に乗って、ドアが閉まるまでは、睦月は亮の向かい側の席に座っていたはずなのに。
「…んだよ、ダメなのかよ、こっち座っちゃ」
「ダメじゃない、ダメじゃないっ!」
ムッと眉間を寄せた睦月に、亮は慌てて釈明する。
嫌なんじゃなくて、ビックリしただけ。
「……亮」
「ん?」
「ゴメンなさい」
「……………………。えっ!?」
基本的に睦月は、『え?』とか、『は?』とかいう反応が嫌いだ。同じことをもう1回言うのが面倒くさいし、話聞いてんのか? て思うから。
それを知っているのに、亮は思わずそう聞き返してしまった。
だって、あまりに突然の謝罪だったから、意味が分からなかったのだ。
「………………」
「あ、ゴメン。いや、急に謝るから。どうしたの、むっちゃん」
案の定、ジト…と亮の顔を見つめる睦月と目が合ったので、素直に謝っておく。
これから観覧車を降りるまでの15分ほど、ずっと気まずい思いはしたくない。
「…別に」
「別に、て。別になら謝ることないじゃん。何、むっちゃん」
「いや、謝っといたほうがいいかな、て思って」
「だから何を」
今日、睦月が亮に謝らなければならないようなことなど、何もしていない…………こともない、というか、してばかりだったというか、まぁ謝って当然かもしれないけれど、一体どうした、突然。
「そもそも、亮を遊園地に連れて来たこと」
「えっ、そこから!?」
睦月も自分で『そもそも』なんて言ってくるくらいだが、亮としても、まさかそんなところから謝られるとは思ってもみなかったので、非常にビックリした。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (82)
「まぁそうだけど…。でも今日は、そんなに怖くなかった……てか、怖がってる暇がなかったし、別にいいよ」
「ジェットコースターもヤなのに」
「1回だけなら平気だし」
「ティーカップもウェッてなっちゃうのに」
「それは……」
亮自身、あんなに具合が悪くなるとは思っていなかったのだが、十二分に楽しんでいた睦月に、その理由は絶対に分からないと思っていたから、正直ちょっと驚く。
睦月がどんな顔をしているのか見たくて、気付かれないように視線を送れば、睦月は亮のほうではなく、まっすぐ前を向いたまま、足を揺らしていた。
「ジェットコースター、亮が苦手なのにがんばって乗ってくれたから、後は亮を楽しませてあげようと思ったのに、結局俺が楽しんでしまった…」
「まぁ…、それはそうね」
ティーカップが動き出したときの、睦月のあの嬉しそうな顔と言ったら…!
お化け屋敷の中ではしゃぎまくっていたのと同じくらいのテンションで、『ギューン!』とか『ビューン!』とか言いながらハンドルを切っていた睦月の顔を思い出す。
まぁ、あんな運転をすれば、乗り物酔いの状態になるのも無理はない。
睦月は、姉と祐介に止められたおかげで、車の運転免許を持っていないらしいけれど、恐ろしくて絶対に車の運転などさせられないと思った瞬間だ。亮も絶対に反対する。
「俺、すぐ楽しくなっちゃうの」
「遊園地来ると?」
「うん。だって楽しいじゃん。俺、すぐに夢中になっちゃう」
亮のことが好きで、亮を喜ばせてあげたいとか、一緒に楽しみたいとか、そう思っているのに、楽しくなりすぎて、結局そのことが頭から抜け落ちてしまうのだ、と。
睦月は亮のほうを見ないまま、そう言った。
「だから、そもそも今日の行き先を遊園地にしたこと自体を謝りたい」
「いや、別にそれは…。結局は俺だって納得して一緒に来たわけだし。俺もむっちゃんと出掛けたかったし」
2人で浴衣を着て出かけたいと言い出したのは亮のほうだし、面倒くさがりで出不精の睦月が、わざわざどこに行くかを調べてくれたことは、素直に嬉しかった。
「でも、そもそも…」
「…むっちゃん、『そもそも』て言いたいだけになってるでしょ」
「………………」
「………………」
「「……フッ…」」
少しの沈黙の後、2人同時に吹き出していた。
恐らく、亮の指摘は図星だったのだろう。詫びる気持ちがあって謝ったはずなのに、笑ったらその信憑性も薄れてしまう。いやその前に、『そもそも』でふざけた時点で、ダメだ。
でも亮は、別にそれを許せないというふうには思わなかったし、どちらかと言うと、いつもの睦月らしさが戻って、ちょっと嬉しかったくらいだ。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (83)
「ぐふふっ」
今は真面目に、真剣に話をしなければいけないはずで、亮はもちろんそれを分かっているし、多分睦月だって分かっているはずなのに、笑いが止まらなくなってくる。
別にケンカをしていたわけじゃないから、仲直りも何もないんだけれど、やっぱりこうして笑い合っているほうがいいな、と思う。
「でも、ゴメンなさい、はホントだかんね?」
ツン、と亮の腕を指でつついて、睦月はプイとそっぽを向いた。
照れ隠しなんだろう、耳が赤い。
「むーっちゃん」
「…んだよ、暑ぃだろ」
「冷房効いてるから平気でしょ」
甘えるように亮が後ろから睦月に抱き付けば、睦月はわずかに身じろいだが、それ以上の抵抗はしてこなかった。それをいいことに、亮は腕に少しだけ力を籠める。
体格的には睦月のほうが断然華奢だけれど、腕力で言ったら五分か、睦月のほうが勝っているから、本気で嫌ならいくらでも逃げ出せるし、睦月ならそうするはずだから。
「…俺、時々、何で亮、俺と付き合ってくれてんのかなぁ、て思う」
「えっ!?」
そんな中。
このまま、観覧車が下に着くまでの間、ずっと甘い時間が続くと思っていた中。
抱き締めていた睦月がいきなり突拍子もないこと――――そしてとんでもないことを告白するものだから、亮はビックリして睦月から離れると、その肩を掴んで自分のほうを向かせた。
「えっ、えっ? 何むっちゃん、何っ?」
「時々……ていうほどじゃなかった。そんなに時々でもない」
「そこはいいんだけど……いや、やっぱよくないかな。じゃなくて、えっと…」
驚き過ぎて、頭が働かなくなったのか、亮は何を聞き返したらいいのか分からなくなっている。
だって、どうして亮が睦月と付き合っているか、その意味を睦月が見失っているのだとしたら、とんでもないことだ。時々ではないというほどの時の単位だとしても、一瞬でもそんなことを思わせていたなんて、絶対に嫌だ。
「そんなに時々じゃないけど、でも今日も思った」
「今日も!? いつ!? どこで!?」
「亮、声おっきい…」
亮がこんなにも驚くとは思っていなかったのか、睦月は何だか面喰った顔をして、亮を見つめ返した。
「ねぇむっちゃん!」
「いや、さっき。もし俺が亮だったら、別れてるよなぁ、て思って」
「…………」
興奮気味の亮に対して、睦月は淡々と語る。
今日みたいに、亮のことよりも自分の楽しさとかを優先してしまった後、ふとそう思うことがあるのだと。
そのたびに、好きだから付き合ってくれているのだとは思うものの、一体自分のどこが好きなのかと考えてしまう。そして、自分だったら絶対に付き合わないだろう、と思って思考は止まる。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (84)
睦月は困ったように眉を下げた。
亮は、まっすぐに睦月を見つめた。
「…むっちゃん、ゴメン」
「え、何が。何急に」
「不安にさせて」
亮が答えても、睦月はまだ意味が分かっていない様子で。
別に不安になんかなってないよ? なんて睦月は言うけれど、いやきっとそれは本心だろうけど、でもそんなふうに思っていたなんて、自覚していないだけで、不安を抱えていたに他ならなくて。
「不安じゃないってば! でも好きでも……何か愛想が尽きることとかあんじゃん? 亮、そうなんないのかなぁ、て思っただけで」
「なるわけないじゃんっ!」
先ほど声が大きいと言われたばかりなのに、亮はまた声を大きくしてしまう。
だって、睦月にそんな気持ちを抱かせていたことが、そんな自分が嫌で堪らない。
「大体、むっちゃんは分かってない」
「何を」
「付き合ってくれてるとか、付き合ってあげてるとか、そういうことじゃない。むっちゃんのことが好きだから、むっちゃんも俺のこと好きだから、だから付き合ってるんでしょ?」
例えば同情とかそういうことで、睦月のために、してやっているわけではない。
そんな感情じゃない。
好きだから。それだけだ。
「それに……愛想尽かすなら、むっちゃんのほうでしょ」
「えっ、それこそ何で」
「だって俺、こんなに情けないし…」
「まぁそれは…。でもそんなことくらいで愛想は尽かさない」
「いや、『情けない』の部分も、もうちょっと否定してよ」
睦月が、亮がどんなに情けなくても見限らないというのなら、それは大変嬉しいことだけれど、でもお世辞でもいいから、『情けなくなんかないよ!』とか言ってほしかった…。
「ゴメン、俺、素直だから」
「そーですね…」
そう言って見つめ合えば、また吹き出してしまう。
やっぱりどうしても、自分たちにシリアスな空気は似合わないようだ。
「ね、むっちゃん。もうすぐ下、着いちゃうから…………その前に1個だけ言わせて?」
「何」
「俺は…………どんなむっちゃんでも好きだから」
見慣れた地上の景色が、窓の外に見え始める。
もうすぐ、この2人だけの空間も、終わってしまう。
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もしかしたら君は天使かもしれない。 (85)
「…………」
真っ直ぐな視線。
睦月も逸らさなくて。
ゴンドラが地上に辿り着く。
ゆっくりと、ドアが開く。
睦月が立ち上がり、つられるように亮も腰を上げる。
ねぇ、俺の気持ち、ちゃんと伝わった?
「――――亮、」
先にゴンドラを降りた睦月が、亮を振り返る。
「むっちゃ…」
「俺もだよ、バーカッ!」
「えぇっ!?」
まるで吐き捨てるようにそう言って、睦月はダッシュで出口へ向かって駆けて行った。
「ちょっむっちゃん、危な…」
「うわぁっ!」
「あー…」
そんなに走ったら危ない、と今日に限らず今までに何度も言ってきたセリフを、亮が言い終わる前に、睦月はお約束のように足を縺れさせて、転び掛けている。
亮たちの後ろのゴンドラから降りてきたカップルが、クスクスと笑い合っている。
でも亮は、観覧車に乗る前のときのような気持ちにはならなくて、笑顔で睦月の後を追い掛けた。
「むっちゃん、走っちゃダメ、て言ったでしょ」
「走ってない。いや、転んでない」
「…………」
言い直しはあったが、その言葉にひとまず嘘はないから、亮はとりあえず口を噤んだ。
「ねぇー亮ー。もっかい観覧車乗る?」
「へっ?」
「だってさっき、チューしそびれちゃったじゃん」
「………………ッ、」
「ひゃはっ」
照れも臆面もなく睦月はそう言って、言葉を詰まらせた亮の手を取る。
ちょっ…顔が熱いんですけど!
あぁもう。
いつでもこんなに亮のことを魅了し、夢中にさせるのに、一体どうして愛想を尽かされるなんて考えるのだろう。
こんなに好きなのに。
「あ、もう割引券ないから、もっかいお化け屋敷入る?」
「それはダメ!」
手を繋いだまま、クルリと亮のほうを振り返った睦月が、ニヤリとそう言って来て。
亮が即行で拒否すれば、睦月は天使のような笑顔で、「ぐふふ」といつもの調子で笑った。
*END*
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カテゴリー:Baby Baby Baby Love
柔らかい夜に魔法はいらない (1)
「あ、そうだ。ショウちゃん。今度の連休、暇? バイトある?」
昼下がりのカフェテリアには、いつものメンバーが揃っていて。
食後のプリンを食べ終えた睦月が、プラスティックのスプーンを銜えたまま、祐介と喋っていた翔真に声を掛けた。
「え、連休? 来週?」
「そう」
翔真と祐介は全然そんな話をしていなかったから、睦月は2人の会話に加わって来たわけではなく、自分の話を切り出して来たのだろう。
睦月が突拍子もないことは、長い付き合いの祐介はもちろん知っているし、翔真だって十二分に分かっているから、あえてその部分については突っ込まず、苦笑するだけに留めておいた。
「えっと……土曜日は休みだったかな」
「土曜だけ? 日曜と月曜は?」
「バイトあると思う」
翔真がバイトしているのは年中無休のカフェだから、土日や祝日関係なく店は開いていて、バイトの勤務も、事前に希望を出しておかない限り、曜日に関係なく割り振られてしまうのだ。
「そっかー、じゃあダメだね…」
そんな翔真の連休の勤務を聞いた睦月は、ガッカリしたように肩を竦めた。
「何? 何かあんの? 日曜とかだって、1日じゃないよ、バイト」
「全部休みじゃないとダメ」
「何で?」
月曜日が祝日で、三連休となった来週末。
どうやら睦月は、翔真に3日間とも予定を空けておいてほしかったらしい。
「俺、今度の三連休ね、バイト休みなの。お盆がんばったから」
「へ…へぇー…」
和衣と一緒のコンビニでバイトを始めてから最初の夏休み、睦月はお盆ということを忘れて休みの予定を入れてしまって以来、毎年お盆は、普通に勤務を入れられているのだが。
しかし、そのコンビニの店長は、ただの学生バイトにも優しい人だったので、お盆休みを取れなかった睦月のために、その代休がこの連休に与えられたらしい。
そうだとして、一体どうして翔真の予定を気にすることがあるのかと、睦月以外のみんなは首を捻った。
「でね、俺、その三連休、家に帰るの」
「実家?」
「そう。でもね、1人で帰っても寂しいじゃん? だからショウちゃんも一緒に来ないかなぁ、て思って」
……………………。
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柔らかい夜に魔法はいらない (2)
たっぷりの間を置いてから、翔真の発した言葉は、それだけだった。
いやだって、意味分かんないし!
「え、いや、え?」
「ん?」
焦り過ぎて何を言っていいか分からなくなっている翔真に対して、睦月は自分がおかしなことを言ったとはまったく思っていないようで、どうした? とキョトンとしている。
「えっと、あの…、むっちゃん、1個聞いていい?」
「何?」
「誘ってくれてすっごく嬉しいんだけど、何で俺??」
一番の疑問は、それだ。
今ここには、睦月と翔真の他に3人いて、その中には睦月の恋人である亮もいるというのに、一体どうして、ピンポイントで翔真のことを誘ったのか。
もうすでに他の3人には断られたのだろうか、しかしそれにしては、睦月が連休の話を持ち出したとき、誰もピンと来ていなかったような…。
「だってカズちゃんバイトだし。ねぇ?」
「え、うん」
「ゆっちと一緒に帰ったって、つまんないし」
「オイ」
「だからね、ショウちゃん、一緒に行けないかなぁ、と思って」
「え…、えっと…………えー…………」
一緒にバイトしている睦月と和衣は、同じシフトが組まれているのだが、今回の睦月の三連休は、お盆休みの代わりということもあって、和衣は休みではないらしい。
だから、和衣が一緒に睦月の実家に行けないというのは分かるのだが、それにしても、祐介の理由…。面倒くさいだろうに、祐介が突っ込むのも無理はない。
で、それはそれでいいとして。
どうして亮について、何も触れない…!?
「えと、むっちゃん…、…………亮は…?」
「え、何が?」
「いや、だから…、亮もダメなの? 連休」
あ、さすがに実家に帰るのに、恋人を連れて行くのはまだ早いと思って、声を掛けなかったのかな? だとしたら、今の翔真と質問は、ちょっと空気読めてなかったかも…。
しかし、そういう理由で、睦月が亮を誘っていなかったのだとしたら、今、亮もいるこの場で、わざわざ翔真を誘うというのも、どうかと思うのだが。
そんなことを思いつつ、翔真が尋ねてみれば。
「え、亮? あ、忘れてた」
「「「「えぇーーー!」」」」
あんまりにも。
本当にあんまりにもあっさりと睦月がそう言ってのけるから、3人して声を張り上げてしまった。
何か特別な理由があって、亮に声を掛けてなかったのかと、一瞬でも考えたことは、本気で無駄だったらしい。
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柔らかい夜に魔法はいらない (3)
あまりにもみんなが驚いたせいか、睦月もようやく自分が変なことを言っていると気付いたようで、慌てて取り繕うとし出すが、全然うまくいっていない。
亮がすごく切なそうな顔をしているから、早くフォローしてあげてほしいのに。
「違うの! カズちゃんバイトでしょ? ゆっちもないなぁ、て思ったから、最初から2人にも聞いてないの。でもショウちゃんの予定は分かんないから、聞いてみないと、て思って…!」
「…………」
睦月は一生懸命説明してくれるけれど、亮のことを忘れていた、ということに対して、全然フォローになっていない…。
「いや、ショウちゃんが目の前にいたからさ、聞こう! て思っただけで、別に亮のこと忘れてないよっ?」
「…………」
先ほど素の状態で、『忘れてた』と言っていたことを思えば、やはり亮のことはしっかりバッチリ忘れていたのだろうが、それを言ったのは睦月だと思うと、何だか責め切れない…。
それにしても、翔真は最初、どうして睦月が自分だけを誘ったのかと不思議に思ったから質問しただけなのに、まさかこんな大事件に発展してしまうなんて。
睦月と亮がすごく仲良しで、胸焼けするくらいラブラブなのは翔真も知っているけれど、時々亮がすごく不憫に思えてならない瞬間があるのはなぜ…。
「いやいやいや、亮のこと忘れてない、忘れてない。忘れてないけどさ、でもどうせ亮もバイトでしょ?」
「ちょおっ!」
「「「………………」」」
全然まったく何のフォローにもなっていなければ、口先だけですら謝ることもなく、睦月はサラッとそんなことを言った。
和衣は睦月と一緒のコンビニでバイトをしているから、休みについて、和衣にわざわざ聞かずに判断するのはいいとして、亮のほうはそういうわけにはいかないだろうに…。
それとも、睦月は亮のバイトのシフトについて、ちゃんと把握しているのだろうか…………いや、たとえ恋人とはいえ、睦月がそこまで覚える気がないのは、周知の事実だ。
「え、バイト休みなの? 亮」
「休むよ! そういうことなら休みますっ!」
「無理しなくても…」
「何で! ヤなの!? むっちゃんっ」
「ヤじゃないよ、ヤじゃないってば。もぉー、亮しつこい」
ちょっと涙目になりながら、亮は睦月の肩を揺さぶる。
亮が今しつこい原因は明らかに睦月にあるのだが、だとしても、素っ気ないままなのが睦月という人間でもあるから、亮をかわいそうだと思いつつ、誰も何も言えない。
まぁ、唯一の救いは、睦月のこうした態度が、亮に限ったことでなく、誰に対しても、ということだろうか…。
「でも亮、今から連休、3日間ともバイト休むとか出来んの?」
ようやく話が纏まったところで、祐介がとっても尤もな意見を出した。
バイトにしろ社員にしろ、そのシフトは少なくとも前月までには組まれているわけで、来週の連休の休みについて、今から言って間に合うのだろうか。
そもそもからして、連休に休みを取りたいと思うのは、亮だけではないだろうに…。
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柔らかい夜に魔法はいらない (4)
亮はハッとして、スマホを手に取る。
さっきは、睦月に『どうせバイトでしょ?』と言われた勢いで、休む、と答えてしまったものの、祐介の言うことは的確だ。
「俺、もう亮と一緒に帰る、て決めたかんね。今から『やっぱダメ』とか、なしだかんね!」
「分かってるってば!」
先ほどまで、亮を誘うこと自体忘れていたくせに、睦月はそんなことを言って、亮を追い詰める。
時々思うのだが、睦月は亮に対して、ちょっとSすぎる気が…。
「つか、お前もだぞ?」
「何が?」
バイト先に電話するため、亮が席を離れると、祐介は今度は睦月のほうを向き直った。
「もしホントに亮と一緒に帰んなら、家に連絡」
「連休に帰るの、もうお母さんに言ってあるよ」
「じゃなくて。亮も一緒に行くこと。お前1人しか来ないと思ってるとこに、亮も一緒に来たら、おばさんだって困るだろ」
「そうかな? まぁどっち道、姉ちゃんにも連絡しなきゃなんないから、そんとき言おう」
睦月の帰省だというのに、なぜか祐介のほうがたくさん心配しているが、それもまぁ相変わらずのことだから、ヤキモチ妬きの和衣も慣れてしまって、とやかくは言わない。
「でも、お姉ちゃんに連絡する、て? お姉ちゃんも合わせて帰ってくんの?」
ようやく落ち着きを取り戻した翔真が、睦月に尋ねる。
そういえば、睦月のお母さんは時々話題に上っては、その性格の豪快さに驚かされることがあったが、お姉ちゃんは、その存在について話が出るくらいで、どんな人なのか、よく知らない。
「んーん、姉ちゃん、実家にいる。何かさ、帰って来るとき、何とかていうお店の、何とかていうお菓子買って来て、て言うからさぁ」
「あー…………、その、何ていう店の、何ていうスイーツなのか、分かんなくなっちゃったのね…」
「えへへ、うん」
せめて店の名前か、スイーツの名前でも分かれば、調べてみようもあるけれど、結局のところ、何も分かっていないわけだから、どうしようもない。
それでも、お姉ちゃんのためにスイーツを買って行かなければならない、というを覚えていただけでも、マシなほうなのか。
「前さぁ、買ってったんだけど、駅の階段ですっ転んで、グチャーてなっちゃって。めっちゃ怒られた」
「それは怒られるね」
睦月のお姉ちゃんがどのくらいの感じで怒ったのかは分からないけれど、睦月が駅の階段で転んで、スイーツをダメにしてしまった姿なら、容易に想像が付く。
落ち着きのなさにかけては、誰にも負けないし。
「でもお前、今度こそちゃんと買ってかないと、大変だぞ」
「…何が?」
今年こそは転ばないといいね、なんて、翔真と和衣が気軽に思っていたところに、祐介は真剣な顔付きでそう言った。
祐介のその雰囲気に、笑っていた睦月も眉を寄せる。
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柔らかい夜に魔法はいらない (5)
「え…」
それは、単なる言葉の綾で、いくらそのスイーツが食べたいとはいえ、ちゃんと買って来れなかった睦月を絶対に許さない、ということはないだろうとは思うのだが、しかし睦月の表情はいつになく暗く、心なしか顔色も悪い。
「ど…どうしよう、ゆっち…」
「ちゃんと買って帰るしかないだろ」
「すっごいプレッシャー…。つか、お前、余計なこと言うなよ!」
「だってそう言われたし」
焦るあまり、アワアワしている睦月を尻目に、祐介はシレッとそう言っている。
日ごろ、暴走する睦月に、様々な目に遭わされている祐介だが、必ずしもヒエラルキーの底辺にいるばかりではないのだ。
「でもむっちゃん、そのスイーツ、お姉ちゃんが買って来てほしい、て言ってるの、何ていうヤツか、早く確認したほうがいいんじゃない?」
「え、何で? 俺、帰るの来週だよ?」
「そうだけど…、それが今も売ってるかなんて、分かんないよ? 季節限定とかさ、もう作ってないヤツとかだったらどうすんの? まだ売ってるヤツかどうか、確認したほうがいいんじゃない?」
どうやら睦月のお姉ちゃんは、すごく怖い人らしいということが分かり、睦月のためにも、和衣はそうアドバイスする。
グチャグチャになっただけなら、食べようと思えば食べられるけど、もう売っていないものなら買って行きようがないから、早めに確認して、違うリクエストを聞いたほうがいいのではないだろうか。
「そっか…。カズちゃん、ナイス! じゃあ、さっそく聞いてみよう」
普段、和衣の言うことをこんなに素直に聞くことなんか殆どないのに…………やはりそれだけ、お姉ちゃんのことを恐れているのだろう。
「…………………………………………出ない」
さっそくスマホを取り出して電話を掛け始めた睦月は、しばらく待ってから、ガックリと項垂れて電話を置いた。
張り切って電話を掛けたのに、電話が繋がらなかったらしい。
「むっちゃんのお姉ちゃんて、何してる人? 働いてんの?」
「働いてる」
「じゃあ今掛けても出れないんじゃない? 仕事中でしょ」
「あぅ…」
学生と社会人では、こういうちょっとしたことで、タイミングが合わないことは、珍しくない。
祐介はそれに気付いていたのだが、張り切る睦月を止めることが出来なかったのだ。
「むっちゃーんっ!」
睦月が、あうぅ…と落ち込んでいるところに、浮かれたような亮の大きな声。
一瞬、睦月がすごく嫌そうな顔をしたのを翔真は見逃さなかったが、追及するのはやめておいた(とばっちりを受けたくないから)。
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